闇の列車、光の旅

http://www.yami-hikari.com/

浦和ユナイテッドシネマで鑑賞。(ちなみに今なら当日券¥800で見れる。)

日本版の予告編では「明日への勇気にあふれる感動のロードムービー」と銘打たれているが、当たり障りがなさすぎる惹句かなと思う。


中米ホンジュラスで暮らすサイラという少女が主人公である。彼女の元に、長年別居していた父親がアメリカから強制送還されて戻ってくる。この父親がもう一度家族の待つアメリカへ行くと計画し、娘にも一緒に行こうと話を持ちかける。ホンジュラスにいても先は見えない。サイラは気がすすまないながらも父と共にアメリカへ旅することを決める。

ホンジュラスアメリカの間にはグアテマラ、そしてメキシコがある。そのメキシコのチアパス州では、カスペルという名の少年がギャング団の一員として明日の知れない日々を送っていた。そのギャング団のリーダーは、カスペルの彼女を犯そうとし抵抗されたため、はずみで殺してしまう。

そのリーダーとカスペル、あと一人の少年はその数日後、移民たちが天井に載っている列車を狙い強盗を開始する。その列車の天井にはサイラやその父も乗っていた。サイラを見つけ、犯そうとするギャング団のリーダー。カスペルは自分の彼女の記憶を思い出し、リーダーを殺してしまう。カスペルには、その電車に乗り続けるより他に道はなかった。

自分を助けてくれた口数の少ないカスペルに魅かれるサイラ。やがてカスペルは、ギャング団からの追跡を逃れるために、サイラが寝ている隙に、走行中の列車を降りる。しかし気づいたサイラはカスペルについてきてしまう。

追っ手から逃れ続ける二人。遂にメキシコ・アメリカ間の国境にかかる川までたどり着くが…。


以上があらすじ。

南北格差について、抽象的にではなく一人の人間の眼を通してリアルに考えさせられる作品。「私たちが当たり前の様に与えられているものを求めて国境に向かう人々」という夏木マリさんのコメントが、自分にはストンと腑に落ちる。

自分がカスペルの立場だったらどのような振舞い・立回りをしたか?と考えるのは、卑近な見方過ぎるだろうか。

あまりにも自分の周囲の現実と映画の現実が違いすぎて感想が出てこないという部分も正直ある。日本はそもそも入国移民を厳しく制限し続けている国だ。そういう閉鎖的な日本の現実は是か非か?と、足元のことを考えたほうが良い気がする。
(いや、むしろ最近は移民供給源になりつつある現実もちらほら見え隠れしているけど。)

とある中学生のつぶやき

母親を看取って死ぬのが自分の人生なのだと俺は長年思っていた。あの人はかわいそうな人だからと。

今はだいぶ違う。「あなたは自分に向き合わないまま死ねるんだね。よかったね。」そう思っている。


俺は「自分の気持ち」というものが長い間わからなかった。
それは押さえ込むのが大人であり、押さえ込むためには自分の気持ちなんて「ないもの」にしておくのが一番の方法であると考え、実際そうした。というか「考え」てもいなかった。当然そうするもんだろ?と。誰だってそうしてるんだろ?と思っていた。

のぞき穴から社会を見ていた。それぐらい、自分にとって社会とは恐ろしい場所だった。というか、はっきり言ってわけがわからなかった。


最近思う。生きることは面倒くさい。はっきり言って生まれなければよかったと思う。
それでも生きるとしたら。何を目指して、何をよすがにして生きて死ぬのだろう。


お金持ちになるため?
愛する妻や子どものため?

安直過ぎて鼻で笑ってしまう。
いや、というか、少なくともそれらは俺の答えじゃない。


一応自分の中に答えはある。あるけど、俺の中の人間不信をもう少し溶かさないと、それは絵に描いた餅にすぎない。それよりも、実は「余程の事が無い限り、俺は俺の人間不信を溶かさない!」とか思ってること自体が一番の問題なんだろう。

そう思うのは勝手だしね、そう思いたければ思ってればいいじゃん…って、人は俺の側から離れていくだろう。





”人生よ、ありがとう
 たくさんのものを私にくれて
 おまえのくれた明けの星を
 ふたつ開けばはっきりと
 白と黒とが見分けられる
 高い空には星ぼしの底を
 群衆の中から愛する人を…”

 (八木啓代『危険な歌』より一部抜粋)


いい歌詞だよな…。一度頭に叩き込もう。
これ以上周囲に迷惑かけたくない。

自分をモニターする自分

私は医師の方に申し上げたいですが、「自分(の言動)をモニターしている自分がいる?」と患者さんに聞いてみてください。「はい」と答える方と、「いいえ」「何のことですか」と答える方とにはっきり分かれると思います。モニターする自分がない方には統合失調症よりも重症の方と思って治療の肛を据える必要があります。そのときはどうするか。…幼少時、いや、ときにはいまも家庭内暴力を経験しているかどうかを疑ってみるのは決して無駄ではないと私は思います。中井久夫『こんなとき私はどうしてきたか』より)


俺はその「モニターする自分」が長い間いなかった。中井氏によるとそういう人は「統合失調症よりも重症」。「家庭内暴力」は…確かに全く無いわけでもなかった。


俺にとって精神科医と言ったら、斎藤学さんよりも中井久夫さんだ。